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『About Us』の変わりに・24gakiインタビュー
『ガッキーは不思議ちゃん・1』
(2010年03月14日号)


弾丸

ところで、ガッキー(24gaki)の肩書きというか仕事は何?マルチ的な守備範囲じゃないですか。で、実態が判らない『不思議ちゃん』じゃないですか。

西垣

何屋さんとか一言では説明しずらいかもね。弾丸のメンバーと知り合った頃は音楽プロデューサーの肩書きを多く使っていた時期だけど、弾丸では構成から制作、裏方、デザイナー・・・。とにかく自分がやれるものは全部やってたものね。

弾丸

各務さんは未だに「西垣さんは何屋さんかわからない。」て言いますものね。

西垣

そうだね(笑い)。
やれることは何でもやらないとさ、浮き草人生だから。
弾丸の主宰・構成、
映画音楽のプロデューサーネットラジオのデレクター兼編集、ネット・デザインナー、コピーライター、文筆家、デザイナーなどなど・・・・。

弾丸

何屋さんと言われたいですか?。

西垣

本当は肩書きなしで名前だけで通じればいいんだけどね。
最近はコンテンツ・クリエーターとか、コンテンツ・プロデューサーとかと言っているけど。「創る人」&「権利を守る人」。

弾丸

益々わからない(笑い)。

西垣

ははは(笑い)。
さらに不思議度を深めるということで、出は、美術大学のデザイン科マンガクラス卒業なんですよ。

弾丸

マンガクラス卒業?。

西垣

京都に精華大学というのがあるんだけど、今はマンガ科になっているけどね。そこの出身。
とりあえず財団法人漫画家協会会委員。

弾丸

漫画家?。

西垣

マンガを連載していてない漫画家(笑い)。
大学の頃に描いていたのは1コマもの、まあ、新聞漫画のようなもので、『月刊 京都』とかに掲載していた。
大学卒業間近に、まだふらふらしてたからさ、何か肩書きがあった方がいいだろうと・・・、とりあえず、実績があったし、協会への推薦も、師匠の大学教授が当時漫画家協会の理事だったこともあって推薦人になってくれて、卒業時に協会員になった。

弾丸

へえ〜、少年漫画とかではなかったんだ。
昔からマンガを描いていたんですか?。

西垣

漫画は好きで、登場人物をよく模写していたけど、ちゃんとストーリーものを描いていたとか、漫画誌に投稿していたとかはないかな。
漫画というより、絵を描くのが得意な子だったのよ。
保育園児の頃から、絵では展覧会の賞荒らしをしていたからね。
いなかった?。クラスで一人ぐらい。何かの科目だけは飛び抜けて目立つ子が? 体育とか、算数とか・・・さ。で、絵で目立つ子が僕だったわけ。

弾丸

じゃ、中学・高校は美術部か何かだったんだ?。

西垣

美術部には籍はあったけど、中学、高校は剣道部だった。

弾丸

運動部系だったわけ?。

西垣

小学校低学年から町の道場、小学校の体育館を利用したやつだけどね、通っていた。
小さいころって、すぐ風邪をひくとか体力がない子だったのよ。食が細くて痩せていた。で、親が心配して、身体を鍛えるために剣道を習わせたから。その延長線で続けていた。
今のおでぶちゃんキャラとはずいぶん違う。ははは。

弾丸

美術部の方は?。

西垣

美術の顧問が「入っとけば・・・・。」的なこともあったけど、絵を描くのは好きだったからね。何かの展覧会に応募するとかの時には描いていたかな。

弾丸

どんな画を描いていたの?

西垣

高校の時に油絵を1枚だけ描いたことはあるけど、どちらかというと水彩で、風景画とか静物画を描く機会が多かった。筆を持ったら悩まないからさ、人より画を描くスピードが早かったのね。みんなが一月かけるとすれば、一週間くらいで仕上げていた
高校の時はピカソには影響を受けていたかな。唯一描いた油絵はキュビズムの影響下にあったかな。
写実というより、感じるままに描くほうが多かった。

弾丸

絵が好きだから大学入試の時に美術科を選んだってこと?。

西垣

自分の成績を考えると、美術だけは良かったからね(笑い)。ただね、美術大学って学費が一般科目よりだんぜん高いのよ。それに画材代がけっこうする。日本画だったら絵の具1本が『数万』というのが極普通にあるからね。
そんな時に手塚治虫さんの『マンガの描き方』という本に出会って、そこに精華のことが、当時はまだ精華短期大学だったけど書いてあったんだ。で、「マンガなら画材代はケント紙とペンと墨汁で、安く済む」と思い立ったわけ。

弾丸

美術科の入試勉強は大変だった?。

西垣

普通ならデッサンの勉強や色彩構成の勉強をしておくんだろうけど、実家が兵庫の田舎だからね、そんな情報も入らないし。まして美術大学受験用の予備校的なものもないし。授業でデッサンをやっていた程度。
入学してから教授に言われたんだけど、「西垣は面接組」と(笑い)。

弾丸

面接?。

西垣

そう。面接の印象が面白かったと。面接で「源氏物語を漫画で描きたい」と言った記憶がある。
でも、実際は、同じ程度の技量なら、既存の何とか美術教室的な色が着いていない人物を選んだようですよ。教える方も出来るだけ『真っ白』な方がよかったみたい。
入試の時に、「鉛筆もB以上のものがあるんだ!」とかと思ったくらいだから

弾丸

B以上?。

西垣

いやね、影とかの陰影の濃さを鉛筆の濃さで変える人がいたからね。後で聞いたんだけど、そういうテクニックは当たり前だった。とにかく、な〜んも知らなかった。

弾丸

ははは。
で、いつからのこのエンタテインメントの世界に興味をもったの?

西垣

本格的に興味を持ったのが大学に入ってから。
当時の美術大学って、自らの力で音楽イベントをやったりとか、パフォーマンスをやったりとかが流行っていたのよ。
京都という街は学生の街でもあるんだけど、ライブハウスの老舗の『拾得』とか『磔磔』があったし、音楽に触れる機会がいっぱいあった。不思議に、自分の周りには演劇は無かったんだよね。
最初の音楽のバイトが、ジミー・クリフの京都円山音楽堂の野外コンサートでの警備スタッフ。大学2年の時。ギャラはうまく騙されたのか、本人のサイン付きの当日のパンフレット。サインは「サイン、プリーズ!」というかんじでゲット(笑い)。

弾丸

音楽のどんなところに惹きつけられたの?

西垣

なんだろうね。
「ギターを持てば君もスーパースター」というギターメーカーのコピーが流行ったんだけど、そこかな・・・・。て(笑い)。
絵の世界って、どうしても内に入って、絞り出す作業なのね。それに比べ、音楽は「解放する」というのかな。その点かな。
楽しかったのよ。

弾丸

音楽活動はやっていたの?

西垣

学園祭バンドだけど組んでいた。なんちゃってプレイヤーね。三つくらいコードを知っていればギターは弾けたしね。
で、自分たちが目立つには自らコンサートを企画するしかない。ということで。音楽イベントを主宰したり、マスコミ研究会というクラブを作ったりとね。当時からプロデューサー意識が強かったのか、ステージで歌うより企画とか制作をするのが楽しくなった。その活動の中で、東京の音楽プロダクションの人と知り合いになって、東京へ出ていくことに繋がってくる。

弾丸

音楽との出会いはわかったけど、文書とかはいつから書いていたの?。

西垣

子供の頃から。
授業で書いたものが中心だったけど、全国紙の児童新聞版に何回か『詩』を掲載されたのね。子供ってほめられると調子にのるじゃん。そんなかんじで好きになったと思う。


後ね、本を読むことが好きな子供だったんだ。一番読んだのは中学の時かな。勉強せずにね。一日1冊は学校の図書館で借りていたと思う。で、読んで妄想する。という。

弾丸

妄想?。

西垣

物語の続きなんかを勝手に考えていた。
例えば夏目漱石の『坊っちゃん』だったら、坊っちゃんの後日談じゃなくて、山嵐は正義を貫いたんだけどその後の彼の人生はひさんだったとか。マドンナは、結局、赤シャツのようなヤツと結婚して玉の輿にノちゃう。とか。

弾丸

小さい頃からゆがんでますね(笑い)。


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