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西垣
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なぜ「待つ」とか「観る」とかの気持ちを持ったんですか?
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水下
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自分の経験なんだけど、高校生のクラブ活動の時に、3年が入試とかで退部して、2年生が一番上に立つ時ってありますよね。
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西垣
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ええ。
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水下
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それまでの上級生がいなくなると、突然上手くなったりするじゃないですか。蓋がなくなるから。技術としては変わっていないのに。
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西垣
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その状況、わかります。
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水下
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それは意識の問題だったりするわけで、蓋が取れた瞬間に「自由になれる」というかね。
それで「突然伸びる」という経験をしたので、「あ〜、人は極端に伸びることがあるんだ。いきなり成長することがあるんだ」と思うんですよ。だからね、そういう「時」を大切にしたいですよね。
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西垣
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演出をしていると、役者のそういった場面にも出会うわけですよね?
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水下
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そうですね。俳優が活き活きしている時って「出来ている!出来ている!」と感じますからね。
自分が演出したシーンでそれが出来ているとうれしいですよね。
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西垣
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そのかんじって、いつもいつもというわけじゃないですよね。
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水下
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役者が「こうしなくちゃいけない」とか思っているうちは、ギクシャクして良くないですね。
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西垣
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稽古中、気を付けていることは何かあります?
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水下
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芝居は部分部分から造りあげて行くじゃないですか。
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西垣
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舞台の芝居は積み上げていくイメージはありますね。
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水下
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積み上げたものを流れで観たときにどうなるのかというか大切だと思うんですよ。
だから、流れていくまで「我慢する」というか、シーン毎は面白いかも知れないけど、全体の流れで観たときに面白くない時ってあるじゃないですか。
映像で言うならば、全体をつなげて観てみれば、無駄がある場合があるじゃないですか。それと同じで、最後に、全体の流れを観ながらシーンをカットしたり、変更したりしていきますね。
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西垣
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プレイヤーの時と演出家の時の「思考の仕方」って違ってきますよね。
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水下
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そう、ぜんぜん違う。
例えば、「俳優やってすぐに違う現場で演出」とするじゃないですか、その場合、しばらく頭が動かないんだよね、三日間ほど。
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西垣
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へ〜、「使う脳細胞」が違うのかな?。
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水下
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頭は動いているんだけど、違うんだよね。全体をとらえきれないというかね・・・。
俳優として外から見ているときって「このシーン、このシーンはこうすればいいんだ」とか思うんだけど、演出家って、全体の流れの中で芝居をとらえていかないといけないからね。絶対に使っている頭は違うと思う。
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西垣
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演出家・水下きよしの最初の頃、例えば、ハナオフの『鉄塔』の頃からそうでした?。
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水下
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そういえば大変だったかな。どうしても、一個づつ芝居をいじるかんじだったかもしれない。で、経験を積んでいくうちに「全体で観なきゃ」となっていったんだと思う。
お客さんから、最初の頃は「二次元ぽかったのが、最近では三次元ぽく見えますよね」と言われますから、きっと初期の頃はそんな演出をしていたんだろうね。
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西垣
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俳優と演出家は違うと?。
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水下
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「使う脳が違う」ということはわかったよね。
最初に演出した時、役者とは違う疲れ方だったからね。
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西垣
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どんな「疲れ」だったんですか?。
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水下
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例えば、8時間の稽古だったら、その間中は考えている訳じゃないですか。「頭を使っているな」とかんじますよね。
役者の場合って、極端に言えば、演出家から言われたことを受けてやっているわけじゃないですか。役者も自分の出番以外の稽古中にも頭を使っているけれども、それって自分の科白を憶えているとか、役造りをこうしようとか考えていることだからね。
演出家の場合って、全体のバランスを考えて「良いかどうか」とか、「空気感も含めて合っているのかどうか」とか、俳優1人を観るんじゃなくて、全体の世界を見ないといけないじゃない。頭の疲れ度が違う。
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